2014年2月25日火曜日

第一番 峯壽院

第一番 馬町 峯壽院 (ほうじゅいん) 馬頭観世音

現住所 盛岡市清水町1-8



御詠歌 進まざる 人に誓ひの 鞭うちて 鈍き心の 駒をいさめむ

 この馬頭観世音は近江国滋賀郡別所村円城寺に源を発し、分治年代に下野(栃木県)に、そのあと江刺に移住し後稗貫郡里川口で千葉市の臣で、新渡戸神酒之進氏(仙岳先生の祖)が法明坊と号して内仏として祭りましたが、慶長三年(1598年)に時の南部藩主信直公より峰寿法印の称を賜り、寛文三年(1663年)に当地馬町に移転した。



 亀慶山峯壽院は、もと天台宗寺門派で近江滋賀郡別所村園城寺末。 ご本尊は馬頭観世音菩薩、脇侍(きょうじ)は延命地蔵菩薩、波切不動尊(なみきりふどうそん)である。 当院開山法壽法印は、下総(しもうさ)(千葉県)千葉常胤(つねたね)の裔(すえ)で、文治年間(1184年~1189年)下野(しもつけ)(栃木県)に移り美濃部を姓とし、のちに奥州江刺に転じて新渡戸と改めた。 後年、稗貫郡里川口(現花巻市)移住。 慶長三年(1598年)、当時の住僧は法明坊(得度前の名前は新渡戸新酒之進)であったが、盛岡藩開祖南部信直公の尊信篤く、壽緜法印の称を賜り、領内牛馬繁殖守護の祈願所となった。 寛文三年(1663年)四月盛岡城下馬町に寺院を移し、巖鷲峯(がんじゅほう)(岩手山)の南方に位置しているところから、「法」を「峯」とし、峯壽院と寺号を改めたという。 この年自光坊同行(どうぎょう)となり、享保四年(1719年)十二月には利幹公により領内守礼配布を許され、峯壽院の名は藩内遍(あまね)く知られることとなった。
(以上は、大正八年新渡戸仙岳氏が、峯壽院再建趣意書に添付した「峯壽院由来」に基づく。)

 ご本尊馬頭観世音菩薩は、もと千葉常胤の内仏で、その仏徳広大にして一心帰依するとき諸願成就せさることなしと言い伝えられる。 南部信直公以来歴代藩主から、特に野馬、飼馬、飼牛の守護霊仏として尊信され、ひいては東奥諸牧牛馬守護の至尊として信仰された。

 なお、脇侍(きょうじ)の波切不動尊(なみきりふどうそん)は渡海中の弘法大師の一命を救ったとじう伝統ある不動明王で、高野山南寺に祀られていることで知られる。 この不動尊は、内乱、外寇、日照り等の災厄時にしばしば祈願されたとされ、当地ではあまり拝することの出来ない仏様である。
 この観音堂は、明治十七年(1884年)の河南大火で灰燼に帰し、新渡戸仙岳氏の先代がご本尊守り、仮堂にお祀りしていたが、仙岳氏等の初願で大正十二年(1923年)間口二間、奥行二間半の現在の御堂が再建された。

 夏祭りは七月十八、十九日、お年越し祭りは一月十八、十九日に執り行われる。

 馬市 馬町における馬市の開設は万治元年(1658年)で、盛岡二代藩主重直公の時代。 明治に入って馬検場が設置され、明治四十五年(1912年)四月現松尾町に移った。

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・2014/06/27 写真追加 第一番 峯壽院 写真

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