2014年3月31日月曜日

第三十一番 新庄観音堂

第三十一番 新庄 新庄観音堂 (しんじょうかんのんどう) 聖観世音

現住所 盛岡市新庄町2-41



御詠歌 昔より 慈悲のはからひ 新たなる 新庄山に 今もかがやく

 木彫座像御丈約三十六糎(cm)光背あり、厨子入台座共総高は八十五糎(cm)で美しい尊像です。 慶長三年(1598年)に九番小山観音と三十一番新庄観音の御姉妹観音が一緒に祀られましたが、野火の災禍などの心配から寛文五年(1665年)藩主重信公の奥方により二箇所に御堂を建立されることになり、新庄観音はもと遙拝所(ようはいしょ)のあった現在地に建立し広く庶民の帰依した觀音様とつたえられて居ります。



 明治維新以前には岩山の南郊の観世音林と云われる処にあって、現在地は遙拝所であった。 新庄観世音の石鳥居前に立って岩山の山頂を眺めれば、中腹に小さな杉林がある。 その中に石灯籠と二つの石碑が現存し、馬頭観世音の碑もある。
 この観世音は珍しくも、三重の御堂の中に安置され、寛文年間の作(吉川保正氏談)と見られ、二尺五寸の坐像である。 又、紫の幕が三つあり寛政頃からの作と云われている。 尚、この新庄観世音堂には室町時代の作の二尺五寸の像がある。(吉川保正氏談)


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・2014/07/06 写真追加 新庄観音堂 写真

2014年3月30日日曜日

西光院

山岸 西光院 (さいこういん)  (第三十番 千手院 関連)

現住所 盛岡市山岸二丁目地内



別名 山岸阿弥陀堂

2014年3月29日土曜日

第三十番 千手院

第三十番 寺の下 千手院 (せんじゅいん) 千手観世音

現住所 盛岡市鉈屋町1-24

御詠歌 千よろづの 御手(みて)に引かれて いと易く 弥陀(みだ)の浄土へ ご念即生(ねんそくしょう)

 千手院には、俗に山岸阿弥陀堂と称される西光院が合併されている。 慈覚大師の開基、奥州藤原三代秀衡公建立伝承の古刹であったが、荒廃のため(昭和五十九年当時の)七~八年前に観世音など合祀、三十番札所である。



 天台宗で、平泉の中尊寺の栄えし頃に山岸小学校の校庭一帯に本堂や松寺が数寺あった由。 その後、中津川の水害や町内の火災にあい、その復興がならず、仮に阿弥陀堂を現在地に建立せるのみで、復興せず。 馬頭観世音の石碑や記念碑があり、檀家なく、さびれているが観世音造りの御堂がある。 観世音の外に仏像が数体保存されている。
 現在は、阿弥陀如来坐像や観音像など千手院に合祀し、千手院が、五番札所と三十番札所を兼ねている。


・関連 西光院


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・2014/09/04 写真追加 千手院 写真

2014年3月28日金曜日

第二十九番 恩流寺

第二十九番 関口 恩流寺 (おんりゅうじ) 柱観世音

現住所 盛岡市愛宕町21-10



御詠歌 いと深き 菩薩の慈悲の 恩流寺 くみつる人は 後世(ごせ)もあんらく

 享保年間に下米内松木平に観音堂がありそれが米内川の大洪水で御堂もろ共御本尊も押し流されて行方しれずなっていた。 ところが浅岸村の照井佐達という信仰深い百姓が或る夜不思議な夢を見た。 それは観音様が佐達の枕許にお立ちになり、私の姿を見たいなら普請場に行って床柱にとっておいたヒバ(木偏に屠)の角材を削ってみよと申されるのでした。 翌朝佐達ヒバ材を削ってみたら、重なりあっていたヒバの節目が観音様になって見えた。 その後佐達が家から恩流寺に祀られることになった。



 当寺の解説によれば、「享保年間に下米内松木平の丹兵ェ山に観音堂があり、それが中津川の洪水で流されてその跡が復旧されずそのままになってゐた。 処が享和年間浅岸村照井佐達の家で数夜にわたり、夜間にふくいくとした芳香と共に大師像が床柱に出現した。」故に、五、三の信者が霊告奇端があり、この床柱を恩流寺に納め、円(ママ)道大哲柱観音として書院に安置している。 柱観音御みくじとして霊験あらたかとされている。

2014年3月27日木曜日

第二十八番 正傳寺

第二十八番 関口 正傳寺 (しょうでんじ) 魚藍観世音

現住所 盛岡市愛宕町22-22




御詠歌 有り難や 仏の道を 正傳寺 これぞ菩薩の 慈悲のたまもの

 魚藍観世音は正傳寺本堂に安置。 陶器製立像で丈約二十五糎(cm)極彩色の御仏様。 女身の菩薩、左手で裳を持ち右手に魚を入れた籠を提げ蓮華台に立ったお姿をしている。 魚藍観世音の御功徳は海上安全、大漁祈願、家内安全、病気平癒にあらたかであります。 正傳寺にはこの他木彫立像で御丈約九十糎(cm)の六地蔵様がある。



 正傳寺の左脇に観音堂があり、そこに魚藍観世音が安置されてあったが、現在は本堂の廊下の正面に安置されている。 御本尊は六尺の陶器製である。 漁師の御守護神で内陸では珍しい。

2014年3月26日水曜日

第二十七番 報恩寺

第二十七番 松坂 報恩寺 (ほうおんじ) 十一面観世音

現住所 盛岡市名須川町31-5



御詠歌 大慈悲の 色も常磐(ときわ)の 松坂に いつか御恩の 報ひまつらむ

 曹洞宗瑞鳩峰山報恩寺は、約六百余年前南部第十三代守行公を開基とし、香積寺五世通山長徹和尚が陸奥糠部郡三戸村に創建した由緒あるお寺で、新都建設に伴い、盛岡に移された。 昭和三十五年(1960年)の近火によって御本尊は持ちだしたものの、第二十七番の聖観世音様や寺宝の三十三観世音は焼失。 三十三観音様のうち十一面観音様ですが、木彫立像で丈五十六糎(cm)、台座共総高は約八十四糎(cm)。



 かつて書院に一尺八寸の聖観世音安置さる。 五百羅漢が有名、本堂は観音堂様式である。
昭和三十五年(1960年)の類焼でこの二十七番の聖観世音は消失し、現在そのとき被害を免れた十一面観世音が、二十七番観音となっている。 丈五十六糎(cm)、台座を含め八十四糎(cm)程の木彫の立仏像である。


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・2014/10/06 写真追加 報恩寺 写真

2014年3月25日火曜日

帰命寺

八幡町 帰命寺 (きみょうじ)  (第二十六番 大泉寺 関連)

現住所 盛岡市中ノ橋通二丁目1地内



 帰命寺(自然山帰命寺)は元禄三年(1692年)に西応という僧侶が如来堂を建立したことに始まるが、明治維新後に廃寺となる。
 そこから、帰命寺跡地には林光という僧が建てた「蛸薬寺」(慈覚大師一刀三礼御作と伝わる薬師如来像)のお堂が建てられたが、それも明治十七年(1884年)の盛岡河南地区大火で消失した。 寺の宝物でる室町時代の作とされる名刹「十一面観世音菩薩」と「蛸薬師」は、類焼の前に持ちだされ、その後大泉寺との併合により、現在は大泉寺(本町通一丁目)に安置されている。

 (帰妙寺横丁は、この奥に帰命寺(浄土宗)があったのが名前の由来。)

2014年3月24日月曜日

第二十六番 大泉寺

第二十六番 花屋町 大泉寺 (だいせんじ) 立千手観世音

現住所 盛岡市本町1-14-1



御詠歌 忍びても 通ひても聞け 法の道 亀の形見を 見るにつけても

 十一面観音はもと八幡町の中程にあった帰命寺が明治十七年(1884年)、大火の悲運に遭い遂に立ちゆかず大泉寺に併合されその時に移された仏様で、木彫の立像で御丈八十糎(cm)厨子入台座共総高は百二十糎(cm)ばかり、見るからに有難く優美な仏様です。 その他帰命寺にあった三十三観音、蛸薬師様と善光寺如来もみんな油長大泉寺に安置されて人々の信仰を集めて居ります。



 本堂右の六角堂に戦前は千手観世音が安置されていた。 それが不用心で盗難を避けて現在本堂左の位牌堂に安置されている。
 尚、当寺には天台中尊寺頃の作(不明)と云われる三十三体全部が安置されている。


・関連 帰命寺

2014年3月23日日曜日

第二十五番 東顕寺

第二十五番 三ツ割 東顕寺 (とうけんじ) 十一面観世音

現住所 盛岡市名須川町2-1



御詠歌 三ツ石の 神に大悲の 跡だれて あらぶる鬼を しりぞけにけり

 十一面観世音は松峰山東顕寺の本堂に安置されている。 盛岡の大きなお寺の殆どは、南部二十六代信直公が慶長年代に、この盛岡に新しく居城を新営の際、藩内の名刹を城下町に移転されたもので、東顕寺はそれ以前地名がまだ不来方といわれた時からこの地にあった寺。 寺宝の十一面観世音は木彫の仏様で御丈二十糎(cm)ばかり厨子入りで総高四十六糎(cm)の美しい仏様である。



 御本尊は座像で、寺内の三ツ石神社の御本尊であったが、御維新の時に本堂に移し申した由。 三ツ石神社の夏祭りの八月末の日曜日にお祀りする。 戦前は四月二十八日が御祭り日であった。
 東顕寺は、最初市内の中野地区にあり、町名変更になる前は里東顕寺(東顕寺のお里という意味)とういう地名があった。 南部氏により盛岡城築城にあたり現在地に移された。 移転の理由は、三ツ石神社に藩祖南部光行公を祀り、神社の管理を東顕寺にさせるためであった。 神社の所在地は城から見ると鬼門(東北の方角)に当たるので藩祖を祀り、城を守護してもらうことを意図したものと思われる。

2014年3月22日土曜日

第二十四番 吉祥寺

第二十四番 三ツ割 吉祥寺 (きっしょうじ) 如意輪観世音

現住所 盛岡市名須川町15-11



御詠歌 法の道 しる人ならば 吉祥寺 知らぬものをも ついにもらさず

 吉祥寺は南部二十八代重直公の茶毘の地を賜って、寛文五年(1665年)に秀廓和尚によって開山された。 御本尊の阿弥陀如来は下北郡田名倍の常念寺から遷座されたみ仏で、盛岡市の文化財に指定されている。



 御本尊は三峰山如意輪観世音菩薩で、大和法隆寺から武田住職が勧進されたものである(その年代は不明)。 吉祥寺は大正十五年(1926年)に新築され、かつては左脇に観音堂があった。 現在は書院に安置されている。
 本尊の阿弥陀如来は、俗称「歯生えの弥陀」といわれ、法身約九十七糎(cm)で、顔面口もとに歯が埋め込まれている全国でも数少ないめずらしい仏像である。

2014年3月21日金曜日

第二十三番 光台寺

第二十三番 三ツ割 光台寺 (こうだいじ) 聖観世音

現住所 盛岡市名須川町8-4



御詠歌 もろもろの 宝の山を 登り来て 光るうてなに 法(のり)の道かな

 聖観世音菩薩は光台寺の山門に向かって右側の観音堂に安置。 木彫立像で御丈九十糎(cm)ばかり台座共総高さは約百三十糎(cm)で非常に美しい御仏様で、昔城下町であった頃、葺手町の三明院近くに後に廃寺になりましたが、浄土宗頓証山菩薩院という寺があり、其処に安置されていたのはこの観音様であったと伝えられています。



 聖観世音は、丈九十糎(cm)程の木彫の美しい立像で、かつて葺手町の三明院近くにあった浄土宗頓証山菩薩院に安置されていたものといわれている。 現在、本堂正面の阿弥陀如来の脇侍として祀られている。
 当寺には二十七代利直公の奥方(蒲生氏郷(がもううじさと)の養妹於武(おむ)の方)の霊廟があり、むかで姫伝説でも知られる。 むかで姫伝説は、於武の方が出た蒲生家の祖が、「むかで退治」で有名な俵藤太秀郷(わわらどうたひでさと)であることに因む。 伝説によると光台寺に葬られた於武の方の霊廟の近くに、俵藤太に射られたむかでの怨霊が夜な夜な出て悪さをし、色々手を打ったが収まらず、時の住職が一躰の仏像を刻み墓前に安置し、供養をしてようやく鎮めたという。

2014年3月20日木曜日

第二十二番 清養院

第二十二番 三ツ割 清養院 (せいよういん) 聖観世音

現住所 盛岡市名須川町7-1



御詠歌 火の守り 軽羅(けいら)の身をば 現すも 大慈大悲の 誓ひなるらむ

 曹洞宗宝鏡山清養院境内の山門を入って、右手にある秋葉権現堂に安置されている。 昔城下町であった頃上田門前町に東顕寺第二世天蓑舜賀和尚によって開創され、後に長享元年(1487年)に移転建立された。 又に宮沢賢治が学生時代に下宿したともいわれる。 観音様は聖観世音菩薩の木彫立像で丈約三十九糎(cm)台座はなく厨子入りで総高さは六十三糎(cm)ばかり。 極彩色の美しい御仏で火伏で有名。



 寺門の右側のコンクリートの立派なお社が秋葉権現堂で、その中に木像の立像で、丈三十九糎(cm)程の聖観世音が秋葉三尺大権現と並んで祀られてる。 どちらかと言えば観音様より秋葉三尺大権現の方が火伏の鎮守としてよく知られている。 夏祭りは七月八日。 法然上人に縁故のあるお観音様らしい。

2014年3月19日水曜日

櫻川観世音の伝説

櫻川観世音の伝説  (第二十一番 龍谷寺 関連)

 盛岡の地がまだ拓けない昔、松前へ通じる一筋の道が北山を通っておりました。 その道筋に、森におおわれて昼なお暗い松坂というダラダラ坂があり、龍谷寺の付近であったということです。

 どっぷり日も暮れたある日、一人の旅僧がここで夜を明かすことになり、観音様を松の根本に安置し、旅の疲れでいつしかうとうとしておりました。 かねて闇からその様子をうかがっていた数人の盗賊が、一刀のもとにと襲いかかりましたが、とっさにその気配を察した旅僧は、松の木の陰に身をひそめました。 その瞬間観音様は光と化し、それを目当てに切りつけた賊どもの刀は真二つに折れ、さしもの盗賊も驚き畏れ一目散に逃げ去りました。

 翌朝、旅僧が観音様はと見れば、勿体無くも御手は飛んで小川に漂い、御手の触れた芦はみな片葉になっていたといいます。

 かつて、龍谷寺境内をその小川(櫻川)が流れ、片葉の芦が風にそよいでいましたが、現在は埋めたてられ、その面影はもはやありません。 しかし、櫻川観世音ご尊顔は、今も昔に変わらずに慈愛に充ちて微笑んでおられます。

2014年3月18日火曜日

第二十一番 龍谷寺

第二十一番 三ツ割 龍谷寺 (りゅうこくじ) 櫻川観世音

現住所 盛岡市名須川町7-2



御詠歌 いと猛き 虎追ふ杖の 龍谷寺 かゝる奇瑞(きずい)も 法(のり)の力ぞ

 山号虎嶽山(又は五岳山)といい、天和から寛永年間の初めにかけて創建された。 開山は、報恩寺六世室梵積大和尚。 明治四年(1871年)に龍谷寺十六世となった葛原對月大和尚を慕い、随身となった弟子の石川一禎和尚は、啄木の父。 この寺で手伝いに来ていた師僧の妹カツと結ばれた話は、よく知られる。
 御尊像は木彫座像で、丈十六糎(cm)ばかり、総高は約三十二糎(cm)で厨子に入り、伝説にふさわしい御姿です。



 櫻川観世音(別名 片葉観世音)は、現在本堂に向かって左脇の室中(しつちゅう)に祀られている。 木彫の座像で、丈は約十六糎(cm)、総高は三十三糎(cm)の片体の観音様で、世人の願いは一生に一回は聞き届け霊験あらたかなりという。 またその御姿にふさわしい伝説がある。
 なお本堂前には昭和十一年(1936年)九月に国の天然記念物に指定された「龍谷寺モリオカシダレ」があり、裏庭にも日本のモリオカシダレが移植されている。


・関連 櫻川観世音の伝説

2014年3月17日月曜日

第二十番 源勝寺

第二十番 那須川 源勝寺 (げんしょうじ) 聖観世音

現住所 盛岡市北山1-13-5



御詠歌 よろづよも 大慈の流れ たえぬべき その源(みなもと)の 勝れたるにぞ

 曹洞宗円峰山源勝寺の境内山門を入って右手にある志和稲荷神社の御本尊はこの観音様でございます。 県内における仏像中、一番古いといわてる白鳳仏で国の重要美術品に指定され、金銅仏で御丈二十七糎(cm)五の聖観世音菩薩立像、台座と御足の一部に削り取られた欠落があります。 豊かな表情と柔和清楚なお姿は、日本古仏中の逸品と拝されています。



 飛鳥時代に作られた丈一尺二寸の金銅仏立像で、紫波郡志和村の志和稲荷の御堂に鎮座して志和観世音として信仰の厚かったのを、日詰の金子氏が当寺祈願所に奉納したものである。 岩手県の古仏像中最古の仏像で、昭和十九年(1944年)七月国の指定重要美術品となっている。 現在は書院に安置されている。


※ 銅造観音菩薩立像(どうぞうかんのんぼさつりゅうぞう)
 平成二十一年(2009年)七月十日 国指定重要文化財(有形文化財・美術品・彫刻)に指定

2014年3月16日日曜日

第十九番 教浄寺

第十九番 那須川 教浄寺 (きょうじょうじ) 聖観世音

現住所 盛岡市北山1-13-25



御詠歌 末の世の 濁りにそまぬ 御教(みおし)へは 浄(きよ)き菩薩の 擁護(ようご)なりけり

 観世音菩薩は、汚れにも染まらない仏のみ教えで、人々を導きお救い下さる、有り難い御利益あらたかな、み仏である。 この観音さまは、イロハモミジの後方に祭られていたのもので、観音さまのお堂も延命地蔵様のお堂も、すっかり朽ち果てて壊れてしまったので新たに昭和五十一年(1976年)に両方を一緒にし、中央に延命地蔵を左に子育て地蔵、右に夢違観世音菩薩を合祀した。



 俗称「おあみださん」の聖観世音は、観音堂に安置されている。 観音堂の中央に延命地蔵菩薩、左側に子育地蔵菩薩、そして右側に聖観世音菩薩が祀られている。
 当寺は神奈川県藤沢市の時宗総本山清浄光(しょうじょうこう)寺(通称 遊行寺(ゆぎょうじ))末寺で、開祖は覚阿湛然和尚、開基は南部十一代信長公である。


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・2014/08/28 写真追加 教浄寺 写真

2014年3月15日土曜日

第十八番 正覚寺

第十八番 上田 正覚寺 (しょうかくじ) 無生観世音

現住所 盛岡市上田2-5-12



御詠歌 生まれずは この正覚を とらずとの 仏の誓い 頼母(たのも)しきかな

 慶長年間(1596年~1614年)没落せる稗貫郡大迫の城主「大迫右近」の兜の八幡座に納めたもので、金銅製の丈一寸二分の御仏体。
 この御仏体は諸願成就霊験顕著なものとして民間に信仰されていました。
 其後、、盛岡の町民「富商の平野八兵衛」と称する人が、御仏体を譲り受け盛岡に持ち来り、ご霊夢によりまして嘉永三年(1850年)春当寺に奉納され、以後長い間厚い信仰を得ている。



 この御尊像は慶長年間(1596年~1614年)に没落した稗貫郡大迫町の城主「大迫右近」の兜の八幡座に収められていたもので、金銅製の一寸二分の御仏体である。 この御仏体は大迫氏の没後、某所で諸願成就の霊験が顕著なものとして広く民間に信仰され、その後、盛岡惣門の平野八兵ェなる富商が、この御仏体を譲り受け、盛岡に持ち来り、後霊夢により嘉永三年(1850年)春に当寺に奉納したもので、無生観世音とは御仏体の背に刻字された無生の銘から名付けられたものである。
 尚、当寺には別に志和稲荷本尊の汗掻観世音も併置されている。 之は白檀製の立像で、台座が三重で高さが三寸七分の、お姿が暑い季節になると汗を掻いている様になるから名付けられたもので、殊にの汗が暑さに隨って著しく、寒くなると隨に薄らぎ、その刻法の見事さは絶賛余りある由。
 御年越しは毎年一月十八、十九日、夏祭りは八月八、九日。


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・2014/07/29 写真追加 正覚寺 写真

2014年3月14日金曜日

明宜庵

長町 明宜庵 (みょうぎあん)  (第十七番 聖寿禅寺 関連)

現住所 盛岡市長田町17地内



 長町の西、梨木町との間の田圃の中に聖寿寺末の明宜庵(みょうぎあん)という庵寺があったが、戦後に廃寺となり、現在は聖光保育園の敷地になっている。

2014年3月13日木曜日

第十七番 聖寿禅寺

第十七番 北山 聖寿禅寺 (しょうじゅぜんじ) 聖観世音

現住所 盛岡市北山2-12-15



御詠歌 まどかなる 光りおふべき 雲となり 明宜の庵(いおり) 世々に知らせむ

 聖観世音像は木彫座丈約三十糎(cm)光背があり、厨子入り台座共総高は七十二糎(cm)程ですぐれた優美な御尊像であります。 明治末、梨木町裏の明宜庵六角堂にありましたが都市計画等の整理から本寺となっていた聖寿寺に七福神像と共に観音様もうつされることになりました。 また聖寿寺は旧藩主南部家歴代の菩提所であります。



 長町田圃(現在の河北小学校敷地)に六角堂と云う庵寺があり、その末寺に明宜庵があった。 学校建設にあたり、当時すでに明宜庵はなく六角堂だけとなっていたが、祀られていた聖観音は本寺である旧桜山の聖寿禅寺に移され安置された。 また明宜庵(ママ)の幸田観世音は蛇神様として昭和の初めまでお社があり祀られていたが、現在は永祥院に安置されている。 明宜庵の境内には馬の屠殺場の跡もあり、馬頭観世音の碑もあった。


・関連 明宜庵


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・2014/07/30 写真追加 聖寿禅寺 写真

2014年3月12日水曜日

第十六番 天昌寺

第十六番 厨川 天昌寺 (てんしょうじ) 聖観世音

現住所 盛岡市天昌寺6-16



御詠歌 地にしげり 天にさかへむ 法(のり)の道 昔鷲山(じゅせん)の ゑざにひとしく

 聖観世音は通称巌鷲観音とも称し、本堂内に安置。 木製立像丈四十六糎(cm)光背あり、厨子入台座共総高八十五糎(cm)の尊像。 伝承によりますと行基菩薩の開眼による御尊像ともいわれ、坂上田村麻呂将軍はこの観音を信奉され東夷征伐の大功をたてられ、源頼義もこの観音の加護により安倍貞任を平定出来たという。 明治二十七年(1894年)に栗谷川氏の菩提寺である天昌寺に奉納された。



 この観世音菩薩は、通称巌鷲山観音と称し、古来より霊験あらたかで、坂上田村麻呂をはじめ源頼義、源頼朝の信奉をあつめたという。
 文治五年(1189年)藤原泰衡征討にあたり、栗谷川の土人(くにびと)工藤小次郎行光の勲功が大であったので、行光に岩手郡を領地として与え、加えて巌鷲山の大宮司に任じ、御尊像を鎮護国家の守本尊として祀られた。 南部家が居城を盛岡に移した際、工藤氏は栗谷川と性を改め、その家臣となった。 南部氏もこの観世音を崇敬し、大勝寺を建立しこれを祀ったが、明治になり栗谷川家の内仏となった。 その後事情もあって工藤家より菩提寺天昌寺へ奉納された。


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・2014/07/27 写真追加 天昌寺 写真

2014年3月11日火曜日

第十五番 浅草観世音堂

第十五番 新田町 浅草観世音堂 (あさくさかんのんどう) 浅草観世音

現住所 盛岡市夕顔瀬町9-2



御詠歌 深かりし 罪のむくゐを 浅草の うつされにけり 慈悲の菩薩に

 以前は新田町といったが現在は市内夕顔瀬町九号二番に金龍山浅草観音堂がある。 浅草観音又は金龍観音ともいうが聖観世音である。 もと厨川の天昌寺の末寺といい、昭和二年(1927年)国鉄山田線の鉄道工事請負者鹿島建設樋口氏が御堂を修築し新しく石の鳥居を寄造し、御本尊も新しく東京浅草の金龍山浅草寺よりお迎えし立派に再建されたという事である。



 厨川天昌寺の松寺として欧州大戦後は一時衰微した。 昭和二年(1927年)に鹿島建設の工事請負者の樋口氏が本堂を修築するとともに石鳥居を寄進し、当時の永祥院の住職に頼み、東京浅草の浅草寺より御本尊を現在地に勧進したものである。 馬頭観世音の碑が二つもある。


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・2014/07/25 写真追加 浅草観世音堂 写真

2014年3月10日月曜日

第十四番 永祥院

第十四番 材木町 永祥院 (えいしょういん) 聖観世音

現住所 盛岡市材木町4-15




御詠歌 有り難や のりのしみづに 養はれ 永き幸ひ うると思えば

 幸田観世音と申しますが聖観世音様で市内材木町の曹洞宗養山永祥院内門を入って左側の観音堂内に安置されている。 木彫座像で丈十八糎(cm)ばかり厨子入総高は約三十糎(cm)の勝れて美しい御尊像。 永祥院は元和年間(1615年~1623年)の終わり頃満室在芸和尚の開山したお寺で初め岩手郡鵜飼村にあったが後に寛永年間(1624年~1643年)に現在地に移転したといわれている。



 紀州三井寺より勧進された聖観世音は、木製座像で丈約十八糎(cm)、厨子入総高三十糎(cm)程の御尊像で、清水観世音といわれた。 もとは永祥院左脇の観音堂に商売繁昌の守り本尊として伝説もある酒買地蔵尊と共にお祀りされていたが、現在は位牌堂の階上殿に祀られている。
 またこの聖観音は、幸田観世音とも呼ばれ、元長町うらの田甫の中の天福院の観音堂に祀られていたが、昭和のはじめ都市計画の整理により永祥院に移された。 また同境内にあった熊谷稲荷神社は、中央通三丁目の岩手山神社境内に移されている。


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・2014/07/28 写真追加 永祥院 写真

2014年3月9日日曜日

第十三番 不退院

第十三番 千日 不退院 (ふたいいん) 聖観世音

現住所 盛岡市仙北町2-22-48




御詠歌 ひとたびの 詣る心 千日に むかふ誓ひと 思ひこそすれ

 現在の不退院は昭和十年(1935年)の新築になり、聖観世音は本堂に安置されている。 一尺位の木製座像である。 当院は虚空蔵さんと云われ、享保の大飢饉の時に南部藩が死者を千日河原に埋葬した時に当所に不退院なる草庵を造ってその霊福を祈ったのであった。



 現在の不退院(虚空蔵堂)は昭和十年(1935年)講中の手により新築され、聖観世音は丈一尺位の木彫座像で本堂に祀られている。 毎年七月十二、十三日の夏祭りには大変賑わいをみせる。  当院は、不退院より「虚空蔵さん」の通称の方が良く知られている。
不退院は元禄七年(1694年)の領内飢餓で、北上川浮島に餓死者を埋葬した霊の供養のため、円光寺の良観喜微和尚が千日の別時念仏を行い阿弥陀如来を本尊とする草庵を造ったことに始まる。 その後享保九年(1724年)北上川の洪水により流失し、藩主南部家より現在地を下賜され本堂を再建し、この付近は千日河原と称されるようになった。 その頃であろうか、千日河原で農夫が草むらの中に光明を発する虚空蔵菩薩を見つけ、家に持ち帰り朝夕家族共々に拝んだところ、霊験あらたかで家内に病む人なく、生活も日増しに豊かになったという。 その評判は近郷近在に知れ渡り、参詣者がふえる一方で、近くの不退院の境内を借り受けお堂を建て、信者の便を図った。 明治二十九年(1896年)、不退院は老朽化し取り壊され、逆に不退院の本尊が虚空蔵堂に祀られることとなった。


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・2014/07/16 写真追加 不退院 写真

2014年3月8日土曜日

第十二番 長松寺

第十二番 仙北町 長松寺 (ちょうしょうじ) 千手観世音

現住所 盛岡市仙北町2-11-26




御詠歌 後の世を 頼む心の 目冴えて よろづの峰に かかる雲なし

 長松寺は大正十三年(1924年)頃迄は、仙北町の横道にあり、当時境内の観世音堂には千手観音と秋葉権現三尺坊が併置されていて、火を司る秋葉さんとして有名である。 現在は位牌堂に千住観世音として安置されている。



 長松寺は大正十三年(1924年)頃迄は、仙北町の横道にあり、当時境内の観世音堂には千手観音と秋葉権現三尺坊が併置されていて、火を司る秋葉さんとして有名である。 仙北町に移ってからは、益々秋葉さんとしてのみ世人に知られ、現在観音堂には、秋葉権現三尺坊が祀られ、千手観世音は位牌堂地下の観音殿に祀られている。
 また天保の大飢饉で餓死した人々の供養のため、祇陀寺十四世天然和尚の遺志を継ぎ、当時十三世泰恩和尚が、宗龍寺境内に五智如来と十六羅漢の巨大な石像を十三年の歳月を要して建立したのは有名である。 墓地にある大石仏は試し彫りした名残である。

2014年3月7日金曜日

第十一番 円光寺

第十一番 万日 円光寺 (えんこうじ) 生目観世音

現住所 盛岡市南大通三丁目11-49




御詠歌 紫の 雲間を分けて まどかなる 光りをみせむ 知恵のいきめに

 第三十一世南部藩主信恩公の御母君慈恩院様が元禄十六年(1703年)六月十八日に切支丹(キリシタン)として処刑された両親兄弟の菩薩のため円光寺境内に観音堂を建立され聖観世音を祭られ追善供養をなさいました。 御尊像は悪七兵工景清の持仏で日向の延岡より遷座になったと伝えられ、特に眼病に霊験あらたかであり生目観音と申されています。



 元禄十六年(1703年)南部信恩(のぶおき)公御生母慈恩殿(おれん殿)の御願いで、寺領五十石を賜う。 かつてお蓮の方の両親はキリシタン二兄弟と共に処刑され、その菩堤を弔うため間口二間半奥行二間の観世音道を建立する。 後、生目観世音として眼病に霊験あらたかである。 悪七兵衛景清の持仏なりという。 毎年七月十六日に祭典を行うとあり。

2014年3月6日木曜日

迎接庵

東中野 迎接庵 (こうしょうあん?、げいせつあん?)  (第十番 久昌寺 関連)

現住所

所在等詳細不明。(現在の門地内の地寺?)

第十番 久昌寺

第十番 寺の下 久昌寺 (きゅうしょうじ) 白子観世音

現住所 盛岡市大慈寺町1-5




御詠歌 あかじまぬ しら子の慈悲に 迎ひてむ たへず花咲く むゐの都ぞ

 第二番の七体観世音と御一緒に安置されています。 聖観世音菩薩で木彫立像十八糎(cm)ばかり厨子入台座共総高三十六糎(cm)でございます。 この御尊像は昔東中野の迎接庵に設置されていたといわれ明治の始めに廃仏毀釈の際に廃寺となり観音像は久昌寺の観音堂に遷されたと伝えられています。



 白子観世音は、元東中野の迎接庵に安置していたのが、明治維新の際に、久昌寺の観世音堂に移され現在に及んでいる。 (迎接庵は現在の門地内の地寺ではないだろうか?) 聖観世音さんで、八幡町や本町の粋筋にとくに信仰が厚かった。
 尚、七体観世音さんも併置されているが、白子観世音さんとしれ知られ、七体観世音さんのことを知る人は少ない。


・関連 迎接庵

2014年3月5日水曜日

第九番 小山観音堂

第九番 小山 法蔵院小山観音堂 (ほうぞういんおやまかんのんどう) 小山観世音

現在地 盛岡市東山一丁目4-2




御詠歌 いと高き 法(のり)の御身(おんみ)を つつましく 小山の里に かげをどどむる

 普通には小山の観音様といわれ、市内川目九地割の中野山法蔵院小山観音堂に安置されている。 聖観世音菩薩で木彫立像。 丈は十八糎(cm)ばかり厨子入台座共総高四十六糎(cm)の御仏でございます。 この観音像は新庄観音様と対になっていて悲しい姉妹の伝説があります。 姉の方の一体が小山観音として祭られ、妹の方の一体は新庄観音として祭られてる。



 景勝の地であり、明治維新前は岩山元(ママ)観世音と称していたが、明治の初期に現在地に移った。 その後御本尊は吉田庄一氏(当時七代目)の邸宅にあったが、火災で焼失し、寺の下の祇陀寺から本尊を迎えて現在にいたる。 伝説では市内加賀野に美しい姉妹があり、妹は新庄観世音に、姉が小山観世音にまつられている由。


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・2014/06/28 写真追加 第九番 小山観音堂 写真

2014年3月4日火曜日

宗龍寺

八幡町垢離取場(こりとりば) 宋龍寺(そうりゅうじ)  (第八番 祇陀寺 関連)

現住所 盛岡市茶畑2-1 (らかん児童公園)




十六羅漢像と五智如来像

 この地は、市内寺の下祇陀寺(ぎだじ)の末寺宗龍(そうりゅう)寺のあったところで、境内に安置されている石像は十六羅漢像と五智如来像(大日如来、釈迦如来、多宝如来、阿弥陀如来、阿しゅく如来)の合計二十一体で丸彫りの巨石群として有名である。

 南部藩の四大飢餓といわれる、元禄、宝暦、天命、天保の大凶作のとき多くの餓死者が出たが、その供養のために祇陀寺十四世、天然和尚がこの石像の建設を発願し、南部領内から供養喜捨を得て、その浄財で天保八年(1837年)十月工事に着手した。 そして紫波郡飯岡山から石材を切り出し、藩の御用職人が三年間を要して、あら刻みをおこない、仙北町、青物町付近の若者達の奉仕で北上川を舟で運び、更に川原町、鉈屋町を経て宗龍寺に送り入れ、最後の仕上げをしたという。 この運搬だけで半年を要したといわれ起工から十三年目の嘉永二年(1849年)六月、天然和尚の愛弟子に当たる仙北町長松寺十三世泰恩和尚のときにようやく竣工をみるに至った。

 宗龍寺は、明治維新後、祇陀寺に併合されて廃寺となったが明治十七年(1884年)十一月の大火で灰になり、現在は二十一体のこの石像群を残すのみとなったのである。


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・2014/07/02 写真追加 らかん児童公園 写真

第八番 祇陀寺

第八番 寺の下 祇陀寺 (ぎだじ) 十一面観世音

現住所 大慈寺町3-16



御詠歌 土石まで 仏になせき 宗龍寺 まして御法(みのり)に 心ある人

 御尊像は十一面観音。 この観音様は以前松尾前の元宗龍寺にあった仏様といわれる。 今は宗龍寺の本寺清瀧山祇陀寺の本殿に安置されている。 宗龍寺跡には、祇陀寺第十四世で宗龍寺第五世を兼ねていた廓岩天然和尚の初願で建立された、南部藩大飢餓死者供養のため五智如来と十六羅漢の二十一体の巨石仏が残っており有名。 現在は羅漢公園として子供達の遊び場となっている。


古来、宗龍寺は十六羅漢様として市民に親しまれていたが、明治十七年(1884年)の河南大火で堂宇を焼失し、その後市の都市計画により街路となり、現在は羅漢公園となっている。 宗龍寺十一面観音は三浦先住職が親寺の祇陀寺に保管を依頼され、現在本堂脇の仏殿に祀られている。 本尊は木像で台座共に一尺五寸の坐像である。


・関連 宗龍寺

2014年3月3日月曜日

白滝

白滝 (しらたき)  (第七番 永泉寺 関連)

現住所 盛岡市川目



 白滝周辺は白滝親水公園として整備されている。

 白滝の名の由来は、この滝にかつて白蛇が住んでいたとの言い伝えにるものだといわている。
 この白滝に沿う道筋は、盛岡城築城以来、江戸時代後期に新宮古街道(現国道106号線)が開発されるまでは、城下から上小路、砂留、八木田、高畑、簗川を経て宮古に至る宮古街道筋だった。


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・2014/07/19 写真追加 白滝親水公園 写真

第七番 永泉寺

第七番 鉈屋町 永泉寺 (えいせんじ) 滝の上観世音

現住所 盛岡市大慈寺町2-22



御詠歌 滝の上の 菩薩をここに 遷しえて 永く大悲の 泉汲ませむ

 中野村白滝の山上に滝の上観世音堂があり、ここに安置されていたのが、ある時火災で滝の上の観世音堂が焼かれ、その後は永泉寺山門前の七福神のお堂に設置されて七福神の御祭りと一緒にお祭りされている。 その御詠歌がある。 「滝の上の菩薩をここに遷しえて永く大悲の泉を汲ませむ」以来、当寺に祀られ盛岡三十三観音札所の七番として善男善女の信仰をあつめている。



 滝の上観世音は、丈七十五糎(cm)ほどの一本木造立の聖観音像で、かつて中野村白滝(現岩山裏側の川目地内)の滝の上にあった観音堂に祀られていた。 明治初年(1869年)、山火事のためこの観音堂は類焼し、観音様も灰燼に帰したと思われていた。 ところが、不思議なことに、翌朝永泉寺の山門の傍らに、この滝の上観音が鎮座していたという。 人々は、観音様が火を遁れ、自ら永泉寺に飛び移ってこられたと崇(あが)め、山門の傍に観音堂を造りお祀りするようになったと伝えられる。
 また、当寺本堂には、左甚五郎作と伝えられる木像の七福神が祀られている。 ある時、稗貫郡石鳥谷の酒造家小野氏が夢のお告げで、この七福神を借用し自宅に勧請したところ、その御利益で有良酒を醸造することが出来た。 そこで酒名を「七福神」と号したという。 なお現在の銘酒「七福神」は、他の酒造店の醸造である。  その他に、多田ノ満仲公の守り本尊と伝えられる聖観世音菩薩も祀られている。


・関連 白滝

2014年3月2日日曜日

高禅寺

高禅寺 (こうぜんじ)  (第六番 大慈寺 関連)

現住所 盛岡市手代森10地割地内



 廃寺となり現在は跡地が小山神社となっている。


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・2014/09/08 写真追加 小山神社 写真

第六番 大慈寺

第六番 寺の下 大慈寺 (だいじじ) 十一面観世音

現住所 盛岡市大慈寺町5-6



御詠歌 たづねても 汲めや福聚(ふくじゅ)の 山清水 大慈大悲の 深きみたらし

 毎年五月十七日の例大祭にだけ御開帳となる十一面観音は、もと大慈寺の下寺である高禅寺に祀られていたもの。
 御本尊は桓武天皇の勅願により僧行基の彫った作と伝えられ見事な尊像。
 あいにく観音様の由来を示す史料は何ひとつ残っていないが、東奥羽札所第十番になっていることもあり、地域のお年寄りや、朱印帳持参の札所まわりの人たちの間に根強い信仰がある。



 元紫波郡手代森の高禅寺に祀られていたもので、高禅寺の廃寺と共に大慈寺に移された。 現在本堂の本尊左脇に祀られている。 高禅寺の御本尊は、高寺観音と言われ、安永年間(1770年代)の記録では東奥三十三観音の十番札所にあたり由緒有るのもで、云い伝えでは僧行基の作という。

・関連 高禅寺


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・2014/08/30 写真追加 大慈寺 写真

2014年3月1日土曜日

法輪院広福寺

法輪院広福寺 (ほうりんいん こうふくじ)  (第五番 千手院 関連)

現住所 盛岡市愛宕下



 法輪院広福寺は盛岡三代藩主南部重直の時代、盛岡城下を一望できる景勝地で城の東北の鬼門に当たる愛宕山に建てられ城下の鎮護とした。
 ほぼ全山に寺社があったが、明治維新の廃仏毀釈運動によって衰退し、現在は往時を偲ぶ遺跡などはなくなっている。
 黒田騒動で盛岡へ配流となり客死した栗山大膳と大吉父子の墓が、愛宕山中腹の法輪院跡に残っている。


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・2014/07/17 写真追加 栗山大膳の墓 写真

第五番 千手院

第五番 寺の下 千手院 (せんじゅいん) 千手観世音

現住所 盛岡市大慈寺町1-24



御詠歌 有難や たへなる法(のり)に 諸人(もろびと)を ちすじのみ手に 導かれり

 南部三十代行信公の時に開山されている。 当時、奥州行脚の六部さんが現在地前の曲物師宅に泊まった。 夜に六部さんの夢枕に三日三晩観世音さんが立ち、鐘をたたいていた。 行信公はこの話を伝えきき御信仰なされ、宝物が三十余点当院に引き継がれている。



 南部三十代行信公の時に開山されている。 由緒によれば、当時、奥州行脚の六部さんが、現在地前の曲物師宅に泊まった。 夜に六部さんの夢枕に三日三晩観世音さんが立ち、鐘をたたいていた。 曲物師も同じ夢を見て不思議に思って、ここに祈願所を立て、この時に不来方城に向かって草庵を立てた。 行信公はこの話を伝えきき御信仰なされ、代々の姫君がご参拝され寛政三年(1791年)には立派な宝物を下され、愛宕山の法輪寺(※ 法輪院広福寺?)が本山でありながらここから宝物が三十余点当院に引き継がれている。 扶持は二人扶持で少ないが、南部藩の信仰厚い千住観世音である。


・関連 法輪院広福寺


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・2014/09/04 写真追加 千手院 写真