青龍水 (せいりゅうすい) (第四番 祇陀寺 関連)
現住所 盛岡市鉈屋町地内 (スーパーかわてつ 駐車場 横)
御田屋清水、大慈清水とともに盛岡山清水の一つ。
この辺りの大きな沼に青龍が棲んでいたという伝説から名付けられた。 小屋がけの清水場は、飲料水、米とぎ用、洗濯場に仕切られ、今も近所の人たちが使用している。
環境省選定・平成の名水100選。
江戸時代は、自噴する湧水だった様子が絵図でわかります。
天保4年初稿の盛岡砂子(地誌)に「了源寺前(隣接の旧川鉄)に有り。真夏は至って冷泉にて厳冬温かなること湯のごとし。この辺はこの水によって居を保つ」と、地域の生活水として古くから利用されてきました。
明治8年には、上手の祇陀寺の湧水池から木管で引水し、石垣に「清水普請寄進面附」が刻まれています。この祇陀寺に伝わる青龍伝説によって青龍水と名付けられたようです。
昭和2年に整備され、同7年に現在の姿となります。昭和45年に枯れたため、井戸に変わっています。
現在も住民によって共同井戸として維持されています。
平成20年に平成の名水百選に選定されました。
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・2014/07/08 テキスト・写真追加 青龍水 写真
2014年2月28日金曜日
第四番 祇陀寺
第四番 寺の下 祇陀寺 (ぎだじ) 馬頭観世音
現住所 大慈寺町3-16
御詠歌 古への 祇陀の御園(みその)も かくやらむ 法(のり)のおとづれ きけぬくまなし
市内大慈寺町3番16号曹洞宗青龍山祇陀寺の本堂内に安置されている。 御尊像は馬頭観世音。 当祇陀寺は金剛宝珠峰徳岩盛なる青龍権現を寺守護として祖継大智和尚の開基された寺と伝えられいる。 また昔当寺は盛岡城下の外堀の南端に位置し現在も裏門の傍に青龍水と名付けられた清泉が滾々と湧き溢れ650年前の伝説を語り続けている。
本堂脇の仏殿に向かって右側に安置され、中央には文殊菩薩、左には聖観音が祀られている。馬頭観世音は、台座共に二尺五寸の唐金の坐像である。
大正から昭和の初期には八月二十日にお祭をしたが現在は行わない。
・関連 青龍水
現住所 大慈寺町3-16
御詠歌 古への 祇陀の御園(みその)も かくやらむ 法(のり)のおとづれ きけぬくまなし
市内大慈寺町3番16号曹洞宗青龍山祇陀寺の本堂内に安置されている。 御尊像は馬頭観世音。 当祇陀寺は金剛宝珠峰徳岩盛なる青龍権現を寺守護として祖継大智和尚の開基された寺と伝えられいる。 また昔当寺は盛岡城下の外堀の南端に位置し現在も裏門の傍に青龍水と名付けられた清泉が滾々と湧き溢れ650年前の伝説を語り続けている。
本堂脇の仏殿に向かって右側に安置され、中央には文殊菩薩、左には聖観音が祀られている。馬頭観世音は、台座共に二尺五寸の唐金の坐像である。
大正から昭和の初期には八月二十日にお祭をしたが現在は行わない。
・関連 青龍水
2014年2月27日木曜日
第三番 長松院
第三番 寺の下 長松院 (ちょうしょういん) 貞体観世音
現住所 盛岡市大慈寺町2-2
御詠歌 万代(よろずよ)も 長くさかへむ 松のいろ 慈悲の誓ひの あらむ限りは
子安延命地蔵尊は旧藩主重信公の御妾長慶院殿の秘仏で安産の守本尊として有名でありました。貞伝観音は聖観世音の木彫立像で丈三十六糎(cm)程光背を有し台座共総高は約六十一糎(cm)金色の優れて美しい御尊像です。この観音様も子安地蔵尊と同じように子安観音とかいわれ盛岡城下町庶民の信仰を集めたということでした。
長松院の本堂脇の観世音堂に安置されていて、ご本尊は一尺内外の木像。
(地蔵さんのお祭りは七月二十二、二十三日、お年越しは旧十二月二十二、二十三日に行われる。)
現住所 盛岡市大慈寺町2-2
御詠歌 万代(よろずよ)も 長くさかへむ 松のいろ 慈悲の誓ひの あらむ限りは
子安延命地蔵尊は旧藩主重信公の御妾長慶院殿の秘仏で安産の守本尊として有名でありました。貞伝観音は聖観世音の木彫立像で丈三十六糎(cm)程光背を有し台座共総高は約六十一糎(cm)金色の優れて美しい御尊像です。この観音様も子安地蔵尊と同じように子安観音とかいわれ盛岡城下町庶民の信仰を集めたということでした。
長松院の本堂脇の観世音堂に安置されていて、ご本尊は一尺内外の木像。
(地蔵さんのお祭りは七月二十二、二十三日、お年越しは旧十二月二十二、二十三日に行われる。)
2014年2月26日水曜日
第二番 久昌寺
第二番 寺の下 久昌寺 (きゅうしょうじ) 七体観世音
現住所 盛岡市大慈寺町1-5
御詠歌 葉を連ね 枝を並べて 幾千代も ひさしくさかふ 如意の誓ひぞ
久昌寺の境内の観音堂慈雲閣に七体観世音は安置されています。御尊像は木彫座像丈は何れも約九糎(cm)で七体を二段に並べて厨子(ずし)の中に収められてあり七体とは聖観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・准胝(じゅんてい)観音・如意輪観音・不空羂索(ふくうけんさく)観音・の御尊像をいいます。
明治十七年(1884年)の大火後に建立の観世音堂に、七体観世音が安置されている。この観世音堂に、白子観世音も安置され、又、明治維新の時までは千住観世音が安置され、之が飯岡の分寺に移された由である。
現住所 盛岡市大慈寺町1-5
御詠歌 葉を連ね 枝を並べて 幾千代も ひさしくさかふ 如意の誓ひぞ
久昌寺の境内の観音堂慈雲閣に七体観世音は安置されています。御尊像は木彫座像丈は何れも約九糎(cm)で七体を二段に並べて厨子(ずし)の中に収められてあり七体とは聖観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・准胝(じゅんてい)観音・如意輪観音・不空羂索(ふくうけんさく)観音・の御尊像をいいます。
明治十七年(1884年)の大火後に建立の観世音堂に、七体観世音が安置されている。この観世音堂に、白子観世音も安置され、又、明治維新の時までは千住観世音が安置され、之が飯岡の分寺に移された由である。
2014年2月25日火曜日
第一番 峯壽院
第一番 馬町 峯壽院 (ほうじゅいん) 馬頭観世音
現住所 盛岡市清水町1-8
御詠歌 進まざる 人に誓ひの 鞭うちて 鈍き心の 駒をいさめむ
この馬頭観世音は近江国滋賀郡別所村円城寺に源を発し、分治年代に下野(栃木県)に、そのあと江刺に移住し後稗貫郡里川口で千葉市の臣で、新渡戸神酒之進氏(仙岳先生の祖)が法明坊と号して内仏として祭りましたが、慶長三年(1598年)に時の南部藩主信直公より峰寿法印の称を賜り、寛文三年(1663年)に当地馬町に移転した。
亀慶山峯壽院は、もと天台宗寺門派で近江滋賀郡別所村園城寺末。 ご本尊は馬頭観世音菩薩、脇侍(きょうじ)は延命地蔵菩薩、波切不動尊(なみきりふどうそん)である。 当院開山法壽法印は、下総(しもうさ)(千葉県)千葉常胤(つねたね)の裔(すえ)で、文治年間(1184年~1189年)下野(しもつけ)(栃木県)に移り美濃部を姓とし、のちに奥州江刺に転じて新渡戸と改めた。 後年、稗貫郡里川口(現花巻市)移住。 慶長三年(1598年)、当時の住僧は法明坊(得度前の名前は新渡戸新酒之進)であったが、盛岡藩開祖南部信直公の尊信篤く、壽緜法印の称を賜り、領内牛馬繁殖守護の祈願所となった。 寛文三年(1663年)四月盛岡城下馬町に寺院を移し、巖鷲峯(がんじゅほう)(岩手山)の南方に位置しているところから、「法」を「峯」とし、峯壽院と寺号を改めたという。 この年自光坊同行(どうぎょう)となり、享保四年(1719年)十二月には利幹公により領内守礼配布を許され、峯壽院の名は藩内遍(あまね)く知られることとなった。
(以上は、大正八年新渡戸仙岳氏が、峯壽院再建趣意書に添付した「峯壽院由来」に基づく。)
ご本尊馬頭観世音菩薩は、もと千葉常胤の内仏で、その仏徳広大にして一心帰依するとき諸願成就せさることなしと言い伝えられる。 南部信直公以来歴代藩主から、特に野馬、飼馬、飼牛の守護霊仏として尊信され、ひいては東奥諸牧牛馬守護の至尊として信仰された。
なお、脇侍(きょうじ)の波切不動尊(なみきりふどうそん)は渡海中の弘法大師の一命を救ったとじう伝統ある不動明王で、高野山南寺に祀られていることで知られる。 この不動尊は、内乱、外寇、日照り等の災厄時にしばしば祈願されたとされ、当地ではあまり拝することの出来ない仏様である。
この観音堂は、明治十七年(1884年)の河南大火で灰燼に帰し、新渡戸仙岳氏の先代がご本尊守り、仮堂にお祀りしていたが、仙岳氏等の初願で大正十二年(1923年)間口二間、奥行二間半の現在の御堂が再建された。
夏祭りは七月十八、十九日、お年越し祭りは一月十八、十九日に執り行われる。
馬市 馬町における馬市の開設は万治元年(1658年)で、盛岡二代藩主重直公の時代。 明治に入って馬検場が設置され、明治四十五年(1912年)四月現松尾町に移った。
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・2014/06/27 写真追加 第一番 峯壽院 写真
現住所 盛岡市清水町1-8
御詠歌 進まざる 人に誓ひの 鞭うちて 鈍き心の 駒をいさめむ
この馬頭観世音は近江国滋賀郡別所村円城寺に源を発し、分治年代に下野(栃木県)に、そのあと江刺に移住し後稗貫郡里川口で千葉市の臣で、新渡戸神酒之進氏(仙岳先生の祖)が法明坊と号して内仏として祭りましたが、慶長三年(1598年)に時の南部藩主信直公より峰寿法印の称を賜り、寛文三年(1663年)に当地馬町に移転した。
亀慶山峯壽院は、もと天台宗寺門派で近江滋賀郡別所村園城寺末。 ご本尊は馬頭観世音菩薩、脇侍(きょうじ)は延命地蔵菩薩、波切不動尊(なみきりふどうそん)である。 当院開山法壽法印は、下総(しもうさ)(千葉県)千葉常胤(つねたね)の裔(すえ)で、文治年間(1184年~1189年)下野(しもつけ)(栃木県)に移り美濃部を姓とし、のちに奥州江刺に転じて新渡戸と改めた。 後年、稗貫郡里川口(現花巻市)移住。 慶長三年(1598年)、当時の住僧は法明坊(得度前の名前は新渡戸新酒之進)であったが、盛岡藩開祖南部信直公の尊信篤く、壽緜法印の称を賜り、領内牛馬繁殖守護の祈願所となった。 寛文三年(1663年)四月盛岡城下馬町に寺院を移し、巖鷲峯(がんじゅほう)(岩手山)の南方に位置しているところから、「法」を「峯」とし、峯壽院と寺号を改めたという。 この年自光坊同行(どうぎょう)となり、享保四年(1719年)十二月には利幹公により領内守礼配布を許され、峯壽院の名は藩内遍(あまね)く知られることとなった。
(以上は、大正八年新渡戸仙岳氏が、峯壽院再建趣意書に添付した「峯壽院由来」に基づく。)
ご本尊馬頭観世音菩薩は、もと千葉常胤の内仏で、その仏徳広大にして一心帰依するとき諸願成就せさることなしと言い伝えられる。 南部信直公以来歴代藩主から、特に野馬、飼馬、飼牛の守護霊仏として尊信され、ひいては東奥諸牧牛馬守護の至尊として信仰された。
なお、脇侍(きょうじ)の波切不動尊(なみきりふどうそん)は渡海中の弘法大師の一命を救ったとじう伝統ある不動明王で、高野山南寺に祀られていることで知られる。 この不動尊は、内乱、外寇、日照り等の災厄時にしばしば祈願されたとされ、当地ではあまり拝することの出来ない仏様である。
この観音堂は、明治十七年(1884年)の河南大火で灰燼に帰し、新渡戸仙岳氏の先代がご本尊守り、仮堂にお祀りしていたが、仙岳氏等の初願で大正十二年(1923年)間口二間、奥行二間半の現在の御堂が再建された。
夏祭りは七月十八、十九日、お年越し祭りは一月十八、十九日に執り行われる。
馬市 馬町における馬市の開設は万治元年(1658年)で、盛岡二代藩主重直公の時代。 明治に入って馬検場が設置され、明治四十五年(1912年)四月現松尾町に移った。
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・2014/06/27 写真追加 第一番 峯壽院 写真
一覧
第一番 | 峯壽院 |
第二番 | 久昌寺 |
第三番 | 長松院 |
第四番 | 祇陀寺 |
第五番 | 千手院 |
第六番 | 大慈寺 |
第七番 | 永泉寺 |
第八番 | 祇陀寺 |
第九番 | 小山観音堂 |
第十番 | 久昌寺 |
第十一番 | 円光寺 |
第十二番 | 長松寺 |
第十三番 | 不退院 |
第十四番 | 永祥院 |
第十五番 | 浅草観音堂 |
第十六番 | 天昌寺 |
第十七番 | 聖寿禅寺 |
第十八番 | 正覚寺 |
第十九番 | 教浄寺 |
第二十番 | 源勝寺 |
第二十一番 | 龍谷寺 |
第二十二番 | 清養院 |
第二十三番 | 光台寺 |
第二十四番 | 吉祥寺 |
第二十五番 | 東顕寺 |
第二十六番 | 大泉寺 |
第二十七番 | 報恩寺 |
第二十八番 | 正傳寺 |
第二十九番 | 恩流寺 |
第三十番 | 千手院 |
第三十一番 | 新庄観音堂 |
第三十二番 | 三明院 |
第三十三番 | 光台寺 |
はじめに
ここでは「増補改訂版 盛岡三十三観世音」の内容と盛岡三十三観世音に関連すること、また、過去に私が盛岡三十三観世音を周った(行った)時に撮った写真等を記したいと思います。
記述内に間違い等がありましたら、どの記事のコメント欄でもかまいませんのでご指摘していただければありがたいです。
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